どんよりとした曇り空。
雨だか雪だかが降るか降らないかが絶妙に微妙な、そんな御しがたい天候の下、荒れ果てた山路を征く事三時間余り。
やや息を切らしながらようやく、儂は目的地である城下町へと到着した。
時刻は昼を少し過ぎた頃で、心情的にも肉体的にも一休みしたい気持ちで満ち溢れていたが、しかしかような暇はありもしない。
手元に視線を落とし黙々と往来を行き来する通行人を尻目に、儂は背中に背負った粗末な茣蓙(ござ)を地面へと広げ、続いて売り物である笠を五つ、その上に並べた。
胡坐をかいてその場に座った後、腰から下げた水筒を傾け、喉を潤す。
ふぅっと息を吐き、弁当箱に右手が伸び掛けるが、はたと思い直しつつぴしゃりともう片方の左手で叩いて、自制を行った。
(おそらく本日の夕げは、儂の分まではありつけぬであろうから、我慢しなくては)
かくも抗い互い三大欲求の一つ――つまりは食欲という業に耐えながら、儂は恨めしく弁当箱を睨みつけていた。
今朝がた嫁がなんとはなしに儂へと指示を行った、肉が食べたいという事象について。
貧に窮する儂の家庭事情を鑑みた点で、それはとても難易度の高い要求(欲求?)に他ならない。
生れてこの方組織に属して職に従事するという生活習慣を持つことが無かった儂は、普段は自宅の庭にある畑からの収穫物であったり、山々に群生している植物や木の実を伐採して、日がな飢えを凌いでいる。
勿論のこと、鹿や猪もいるにはいるのだが、元来運動神経のすこぶる悪い儂である、狩りはめっぽう苦手であり、上手くいったのはこの方僅か二度程しかない。
なんならばその際に無茶をし過ぎて左足首を骨折してしまうという、報酬に見合わない対価を払わされたことも過去あった。
であるからして、此度の嫁の無茶振りに対応するには、肉を手に入れる為の幾らかの金を要するのは必然であると言えよう。
薪割・食事・洗濯・掃除と。
あらゆる家事を儂一人でこなしている日常の中において、唯一の趣味であるモノづくり。
これを利用しない手は無いと儂は考えたのであった。
柏(かしわ)の木々の枝の部分を樹皮を剥がし、取り出した繊維を折り合わせ、藍の染料で着色した、笠が五つ。
一ケに対しての製作時間は凡そふた月ばかりなので、ここ一年間で貯め込んでいた物全てを、急遽金に換える必要を迫られた。
しかし、これが一向に売れない。
付近では凱旋雑技団が見世物を行っているからであろうか、客足が儂へ向くことは殆ど無く、無情にも時間だけが過ぎていく。
途中、暖かそうな毛皮の衣服を着込んだ子供達が冷やかしに来たり(何度か頭を叩かれもした)、見回りの憲兵らしき中年男に職務質問という名の辱めを受けたり、購買に繋がる事象は一切見当たらず、心身への過負荷だけが強まっていく。
そして地面に尻を付けてから六時間ばかりが過ぎた頃であろうか。
辺りはすっかりと夕闇に包まれ、肌を刺すような冷気と共にちらほらと雪が降り始めているのを確認した儂は、もぞもぞと身体を揺すり、あと一時間だけ粘って無理ならば本日は諦めようなどと、なんとか理由を作って閉塞感に溢れる現状からの脱出を試みていた。
と、そこで。
「おにーぃさんっ。シケた顔してどうしたの? ……って、ありゃりゃ。結局あれから一個も商品売れてないじゃん。ウケるんだけど!」
声が聞こえる方へ俯いた顔を上げると、そこには何やら特徴的な風貌の人間が立っていた。
顔以外の全てをすっぽりと覆った長外套姿の、老婆である。
頭にかぶった赤頭巾から覗かせる金髪の奥に二つある、蒼と翠の両の眼は異様なまでに輝きを帯びていて。
持ち物らしい持ち物といえば肘の辺りにぶら下げている木籠ぐらいで、その中には何やら西洋風の絵が印刷された掌に収まる程度の小箱がぎっしりと詰まっている様であった。
「え? なんなん、なんなん。もしかして凍死してるから返事出来ないとか?? もーしもぉ~~っし! 元気ですかー!!」
「やかましい。聞こえておるわ。というか、冷やかしならば去れ。邪魔じゃ」
対面の赤頭巾をかぶった老婆の、皴の刻まれた醜悪な見た目に、何処か老人同士という同族嫌悪の意識が働いてしまったか否か、儂は必要以上に邪険な態度を取ってしまっていた。
「ツレないなぁ。同じ物売りだから仲良くしよーよー。あたし、叶芽維悔(カナメイブ)ってんだ。イヴちゃんって呼んでね! おにーさんの名前はなんてーの?」
露骨なまでにしなを作る相手の素振りに吐き気を催しながらも儂は、
「坂田じゃ」
とだけ苗字を名乗り、以来頑として無視を貫き通した。
初めのうちは冗句を飛ばしたりちょっかいを掛けてきた叶芽であったが、やがて飽きたのか路の反対側へと踵を返し、立ちっぱなしで商品の購買を呼びかける作業に戻って行った。
相変わらず雪は、止む気配を微塵も見せてはいない。
【続く】
・次回・