※これは事実を元にしたフィクションです。登場する個人名・団体名などはすべて架空のものなのでご留意ください。
くどくなってしまうようで恐縮だが、ここで再び麻雀マンガの一例を引き合いに出そうと思う。
最も有名な雀士、あるいは伝説の勝負士、ないしは無頼作家である阿佐田哲也の青春を描いた【哲也~雀聖と呼ばれた男~】の作中の序盤、主人公である哲也が未だ16歳の頃の出来事である。
彼は房州という男に弟子入りし、種銭を持つことを許されずに雀荘へ行くという修行じみたことをさせられていた。
一度でも負ければ金が払えず一巻の終わり、手持ちがないので袋叩きにされてしまう不条理に見舞われる哲也。
しかしある日のこと、彼は無傷のまま房州の前に姿を現した。
何故今日お前はシバかれていないのだと尋ねた師に対し、彼は確かこんな答えを返した。
“トイレの窓から逃げてきた“”
奇しくも、というかそれに倣って、私は同じことをやろうとしていた。
ナガノから聞いた通り、入り口から向かって左の奥にトイレはあった。
向かって左側が男性用で、反対である右側が女性用。
私はまず、左側のドアへと入る。
小便器が2つ、個室が1つの窮屈な間取りであった。
換気扇があるのみで、窓の類は無い。
(ふむ……)
踵を返し、今度は右側の女性用トイレへと入る。
個室が二つ、子供用が一つ、そして窓があった。
外側からは面格子が取り付けられている為、このままでは出ることは叶わない。
辺り、特に天井を見回す。
(流石にトイレには監視カメラの類はないか。いや、仮にあったとしても録画映像は提出できないだろう。盗撮を公言する様なものだし)
私はいよいよ覚悟を決めて、清掃用具が収納された扉を開け、木製モップを取り出した。
そして壁面と面格子の間にモップを挟み込み、てこの原理を用いて力の限り両手で柄の部分を引っ張った。
バキッ!
モップは折れてしまったが、僅かに面格子の接合部がたわんで、スペースが広がった。
それでもまだ出るには狭かったので、トイレの入り口に放置されていた酒瓶のコンテナに乗り、高さを確保した上で何度か蹴りを入れる。
その後ようやく面格子の右半分が壁から離れたので、私は窓辺から身を乗り出し脱出に成功した。
「さて……」
賛同しそうな素振りをみせてオーダーを頼んでいるとはいえ、あまり猶予は残されていない。
一刻も早くここから離れなくてはと思っていた矢先、タクシーが停車しているのを見つけ、やや駆け足で私はそちらへ向かっていく。
「すぐに出してください。とりあえず京都方面へお願いします」
飛び込むようにしてタクシーに乗り込んだ私は、運転手に向かってそう伝えた。
「はいよ」
絶賛サボリ中だったのだろうか、運転手は不機嫌そうな口調ながらも応じて、車を出発させた。
バックミラー越しに後方を確認するも、追手の気配はない。
私はやっと一息つけたなと安堵しながら、憶測を巡らせる。
(札束を受け取る一連の流れを動画に撮られていて強請られるか、あるいは出された飲食物に薬物が混ぜられていて気を失っている間に捏造させられるか……ぞっとしないね、どうにも)
これらは全くもって確証の無い妄想である。
が、しかしそれらの可能性もゼロとは断定できない。
器物損壊じみた凶行を強行した事実は消せないが、それでもあの場から逃げたのは正解だったと願いたかった。
ナガノとは連絡先を交換していないので、電話やメールやチャットでの催促はないだろう。
だとしても、不安はぬぐい切れない。
はたして、このまま彼女は諦めてくれるのだろうか。
念の為、というか至極不安に駆られてしまったため、その日私は自宅には帰らずビジネスホテルで一夜を明かした。
翌朝、恐る恐る帰宅するも、部屋が荒らされた様子はなかった。
しかし6日後――私は三度ナガノと顔を合わせることになる。